#10「おーどぱるふぁむ」
むせ返るような濃密な香りの中、浮かぶ。
無重力のような空間は私から方向を奪う。
私はどこにもいなくなる。
明るく輝く月は、乳白色の明かりで、ギリギリで存在する四角形の町並みを溶かしている。
蝶が飛んだ気がしたが、今は秋だから、それは、私の脳に作用する何れかの感覚が質量保存の法則を無視して飛ばしたのだ。
しつりょうほぞんのほうそく
高校二年生の夏休み、あの夕方のベンチ、部活の後、シーブリーズ。物理は苦手だった。世の中が解きほぐされてしまうような気がしたから。複雑でいてほしかった。少なくとも、方向のない空間を浮かぶことができるくらいには。
あれからしばらく経って、
私は物理とは無縁で、次々と現れるさびた人形のような音を立ててこちらに倒れ掛ってくる震え、と、共存する。
香りをまき散らさないように囲ってあるガラス。まき散らせないならば、私はまだ部活の後の制汗剤のシーブリーズの方がましだ。
叩き割るか。そして、この濃密なジャスミンとシダーウッドの香りを、月まで届けてみようか。
そうだ、夜は長い。